「《TA・TARO》 風景からの視線」
小澤氏から展覧会依頼の手紙を頂いたのは2007年の夏であったように思う。
最近はめっきり見かけることも少なくなった 自筆の太ペンでダイナミックに宛名が書かれたその封筒の中には、画廊運営に対する熱い思いと何通かの会報誌「夢の庭」が添えられていた。
その数ヶ月後、晩秋の陽光の中、無言館や信 濃デッサン館に近い前山寺のふもと、“夢の庭”に伺った。背後にバラ園を抱え木立ちの中、別棟の画廊はひっそりと建っていた。画廊は華美な装 飾を避けシンプルに、しかしホワイトキューブの典型が示す無機質なギャラリー空間とは異なり、円形の屋根部が梁の合い間から覗き、壁面の色調 は若干の暖色味を帯び、床中央は鉄平石がそしてコーナーには玉砂利がぐるりと敷かれ、その中に身をおく人との交歓によって空間が形成されてい くような有機的で生気に満ちた印象をつくり出していた。その形状からか、なぜか最晩年のマテイスが心血を注いだヴァンスの礼拝堂を想い起こさ せたのだった。
上田は、僕の郷里である。
ただ大学を卒業し、作家としての活動を本格 的スタートしてから30年余、積極的に郷里での発表を求めずに今日になっていた。思うにそれは、僕の制作や活動そのものと郷里である上田との 相関に深い関係性を見出せなかったからであったと今は思える。
僕はフォーマート(画面の縦横比)と精神性 の相関をメインテーマに絵画を制作してきた。
“TA系“と名付けられた横長フォーマート の絵画群は、当初無機的で抽象性の強いものであった。徐々に画面内には形象性が導きいれられ有機的な表情が現れ,余白と色面が横に反復されるなか,形象が横長フォーマート内を結び”TA系“を特徴づけ体系を形成していっ た。多くの場合その横長画面、そこには地平線を有す水平性の風景が貫かれている。
さらに近年では野外に設営する外界の風景を 切り取る窓を持つ《絵画のための見晴らし小屋》と連動しながら展開されている。
さてここで「風景」について考えてみたい。
そもそも風景とは”近代的個人=主体“の出現と密接に関係し ていると考えられる。風景はア・プリオリに存在するのではなく、人々の視線こそが風景を形成するのである。もともと在るものは地形や光景 であり、人々がそこに視線=眼差しを送ることによって風景が生成されるのである。それを形成するのがデカルトの言うように近代的個人、世 界を視線で秩序づける主体なのである。
だが僕はそんな風景に、人が風景を見るだけ ではなく、”視線の双方向性”を、風景からの視線を感じるのである。
その前にその視線の双方向性についても語る 必要があるだろう。
僕がこの視線の双方向性を強く意識したの は、ドイツ留学中、冷戦下のロシアを訪ねた際のロシア聖堂内のイコン体験であった。聖人を描いた無数のイコンによって聖域を仕切るイコン壁が 設けられている聖堂内では、礼拝に訪れた人々がイコン壁を前に聖人たちに祈りを捧げていた。その静謐な信仰に満ちた眼差しをそそぐ姿は同時 に、聖人たちに見守られているかのようにも見えたのだった。ここでは人々は描かれた聖人たちの像=イ コンを見るだけではなく、その聖人たちから送り返される眼差しによって彼らは見守られているのだ。ここには視線の双方向性があるのだ。こ の見、見守られる関係を僕は実は風景のなかにも見るのである。
それは、僕が上田で育ったと言うことと深い 関係があると思われる。上田には太郎山がある。そのふもとで僕は育ち、何枚もの太郎山を描いて育ったのだった。
太郎山は、当地で最も高い標高を有し,太郎との名にふさわ しく、その雄姿は堂々とそしてゆったりと穏やかな姿を示し、そしてなだらかに傾斜していく扇状地に広がる僕らの生活をちょうど守護神のよ うに見守っていたように思えてならないのだ。それはきっと、人々がこの盆地に居を定めた時、太古から続いているのだろう。
そんな幼い頃の体験が僕に独自な風景観を創ったのかもしれない。
山には、風景にはそんな力がある。そして僕が探究をすすめる絵画もまたその力を内包し,使命として社会から託されているはずである。そのためにも絵画は自らの原理を自覚する必要があった。その問 いかけとして、今までの僕の制作はあったように思える。
そして今、ようやく僕の絵画は郷里の風景と連携され、アトリエではその太郎山をモデルに《TA・ TARO》の制作がすすめられている。
僕は、僕の絵画は、随分と郷里を待たせてし まっていたのかもしれない。
今回、発表するのは、太郎山をモデルに描 く《TA・TARO》150x250cm(4枚組)を含め、そんな風景観を生み出すこととなった上田の風景が中心になる。